社会人ドクターのススメ

社会人をしながら博士課程で研究をする人間が思うことを、テーマを定めずいろいろ書いていくブログです。在籍してきたハーバード大学や東京大学の話を、将来的には書くかもしれません。

社会人ドクターとはどういった存在か

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ドクターといっても医者のことではない。このブログは、社会人として働きながら博士課程で研究をしている人間が、テーマを定めずに、思うことを書いていくというものである。

 

簡単に自己紹介すると、筆者は日本で生まれ育ち、公立中学を経て、高校受験、大学受験をして社会人になった人間である。ここまでの経歴には、なんの特筆すべきことはないだろう。自分の転機になったのは、社会人になってからの経験である。周囲からは「遅咲きの狂い咲き」と揶揄されている。

 

社会人になって、それまでの不勉強を恥じる自分がおり、罪滅ぼしの意味も込めて、20代中盤に夜間大学院に通学した。その時点では3年程度の社会人経験であったが、それまで無味乾燥に思えた知識が、現実の世界を理解するための道具として認識され感動した。初めて血の通った学問の世界を体験することとなった。

 

なによりも大きい収穫は、学問を通じて、深く考えることが習慣化されたことである。日々経験するできごとを観察対象として客観視して、そこから共通するファクターを導き出すという作業は、知的好奇心にあふれたものであり、たとえ周囲が止めても、学び続けるというポジティブサイクルに入れたことである。マラソンでいうランナーズハイを超えたということだと思う。

 

英語は最も不得意な勉強であった。一念発起して英語勉強を決意して、寝る時間を削って英語を勉強した。杉村太郎の書籍は、いつも筆者を励ましてくれた。結果、ハーバード大学の大学院に進学することができた。ここで更に学問への情熱に火が付いた。

 

帰国後、社会人としての仕事をしながら、東京大学の博士課程に進学した。「まだ勉強を続けるのか?」周囲からは未だに理解はされていないだろう。とりわけ博士課程については、もはや趣味の領域と認識されており、酔狂な人間の趣味として位置付けられているようにも思う。それで良いとも思っている。

 

大学や学問は危機に瀕している。

 

教育コンサルタントがいう「大学倒産」といったような話もあるが、より深刻なのは世間が大学や学問に対して無関心になっていることではないだろうか。多くの人にとって、大学は卒業証書を発行するための機関でしかない。

 

これに対して、会計が学べます、パソコンが使えるようになりますと「実学」を打ち出して生徒を集める大学もあるが、それではTACやAvivaと違いがない。それはビジネスであっても、大学や学問が固有に持っている価値ではないと思われる。

 

面白い動きは、在野研究が活発になっていることである。「在野研究ビギナーズ 勝手にはじめる研究生活」(荒木優太・明石書店・2019年)では、15人の大学に所属しないで在野で研究をしている民間研究者を特集している。人生100年時代になれば、特に退職後の活動として学問を選ぶ人も増えるに違いないと思う。

 

そもそも学問とはプライベートなものだと思う。アインシュタイン特殊相対性理論の論文を書いたのは、特許庁の職員をしていた時代である。あのアインシュタインですら、大学に所属しない在野研究者であった訳であり、これは学問の本質を示していると思う。

 

ポスドク(博士研究員)の問題が指摘されて久しい。文部科学省の政策により、大学は多くの学生を博士課程に進学させたが、結局少子化もあり大学は十分なポストを用意することができず、企業も博士研究員を採用しないため、多くの博士号取得者が低賃金に甘んじていたり、路頭に迷っているという問題である。これは弁護士のロースクールにも通じる問題であるが、理念先行で世間の需要と供給を無視した政策の典型だと思う。

 

しかし、実はこうした問題は、マックスウェーバーの著名な講演である「職業としての学問」で既に1917年時点で語られていた内容でもあった。マックスウェーバーは、熱狂的なファンを持つドイツの社会学者であるが、彼は講演の中でこう述べている。「学者を志す者が、将来教授などのポストを得られるか、それとも人生を棒に振ってしまうかは、そのほとんどがその人の研究成果ではなく運や偶然で決まってしまう。また運よく大学教員になれたとしても、研究者としての評価が実力から乖離している場合が多い」

 

この講演では、更に学問が専門分化しすぎてしまっているが故に、学問をしたところで「生の意味」を得ることもできない。つまりなぜ生きているのかというような、哲学的・宗教的な生き方の指南を与えることは学問にはできない。学生をはじめとする若者が、なんらかの社会体験を得ようとするために結社の類(今風で言えばサークル)を作ろうとすれば、結局は狂信的集団に陥るだろうとも述べている。

 

ではなぜ学問をやるのか、マックスウェーバーの答えは、「考える主体であり続けるため」というもの。この宿命が受け入れられない人は。おとなしくキリスト教への信仰に戻り、そこで日々求められる役割を果たし、人間関係の中で生きるべきであるとされている。

 

なんだか冷たい話にも感じるが、本質も突いているとも思う。多くのケースにおいて、なぜ学問をやっているかというのは、売れないアーティストが好きな芸術作品を作り続ける作業に似ているのかもしれない。売れるかどうかは二の次であり、むしろ二の次であるべきなのかもしれない。ゴッホ相田みつをですら、生前は評価されず、死後になって著名人が注目したから世に出たわけであり、それまではただ単に自分が信じる美意識のためだけに作品を作り続けただけだと思う。学問もその本質は、とにかく知りたい・理解したいということであるので、売れるかどうかや、注目されるかどうかというのは野暮な話なのかもしれない。

 

「科学者という仕事」(酒井邦嘉中公新書・2006年)には、寺田寅彦の言葉としてこのように書いてある。「頭のいい人は、批評家に適するが行為の人にはなりにくい。すべての行為には危険が伴うからである。怪我を恐れる人は大工にはなれない。失敗を怖がる人は科学者にはなれない。自分を頭がいいと思い、利口だと思う人は先生になれても科学者にはなれない。同時に科学者には観察と分析と推理の正確周到を必要とすることは言うまでもないことである。つまり、頭が悪いと同時に頭がよくなくてはならないのである」

 

こういった価値観や美意識に、共感できるかどうかが大きいだろう。他方で、生きるための糧を得ないことには、落ち着いて学問をするということも難しいだろう。人間は衣食足りて礼節を知る生き物であるので、学問のような高次欲求を満たすためには、定職や収入が不可欠となる。

 

筆者が実体験として感じるところは、一部の飛び級で大学教員になるような人を除いて、社会人ドクターとして仕事を持ちながら研究を続けるという生き方が、最もバランスが良いのではないかということである。

 

定職があれば恐れることはない。自分の好きな研究ができる。他人の評価を気にする必要もない。それは趣味のようなものかもしれない。しかし、本気で学問をやっている人は、それが単なる暇つぶしの趣味だとは思わないだろう。暇つぶしというには犠牲が大き過ぎる。そして趣味というには、得られるものが非常に大きいからである。